深淵はこちらを覗いても、真実はこちらを覗かない

このご時世ひりついて外に出るのも怖がっているくせに、わざわざ会社を休んでまで書いているブログは楽しいか?いや、別に楽しいから書こうと思ったわけではないのですが。わざわざ休んでまで書きたかった。心の整理をする時間が欲しくて仕方なかったんです。

そういうわけで、「気持ちが落ち着かない」という理由を述べて早退してきました。心に欠陥があることは入社当時からお伝えしており、先日会社の手助けもあり緊急搬送されるくらいには認知されているので、疑われなかったでしょう。

 

 

おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。皆さんお元気でしょうか?私はまあまあです。はあ。今月に入ってたらふくODを繰り返していながらも「まあまあ」と言ってしまう、この状況理解力のなさ。ウケますね。マジウケる〜です。

ODを繰り返す理由はただひとつ。「楽しいから」。それ以外に理由がないです。そして、ODを決意した瞬間、それ以外に「楽しさ」を得ようとする方法が頭から消し飛びます。

別に、憂さ晴らしでODをしているわけではないです。という解釈です。良くないことをしている自覚はありますが、きちんと強く自覚しているわけではないので、繰り返しているのだと思います。

 

OD、後悔はするけど反省ができない問題。

 

ODで祖母を幾度困らせても、会社で騒動を起こしても。懲りずに、「これくらいなら」と調子に乗って内服量を増やしていく。よくないです。

それに。他者に迷惑をかけた後悔、申し訳なさ。脳の働きが通常ではなくなっていたことへの不安感。それを自覚し恐ろしくなり、幾ら後悔して、ごめんなさい、やるんじゃなかった、と思ったか。

それでも、飲んでるんですよね。

反省、できない。心の底からごめんなさいを思えていないし、自分のことしか考えていない。というか、自分のことすら考えていません。そんな私に返ってくるものなどない。

……いや?返ってくるものなんか求めてないですね。一時的、刹那的な「快」しか求めてないんですね。

 

常日頃、やはり『生きる』をするのは難しくて、つらくて、しんどくて。でも、『生きる』を感じるのは楽しい。それを感じているときは遠く離れていられます。「『死ぬ』に陥るのが怖い」という感覚から。つまり、逆に、「『生きる』をするのが楽しい」から遠く離れたとき、『死ぬ』に陥ることに対しての不安感がどっと押し寄せます。

 

死ぬ。死。死後。

何があるのか、わからない。本当のとこ、どういうものが待っているのかわからない。考えても、考えても、感じることができないものはできないんですよね。『感じる』がなくなってしまうのだから、死ぬまで無理です。死んでからの話です。

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。でも、真実を幾ら見つめ、探り、確かめようとしても、真実はただ鎮座したまま、こちらを見向きもしない。真実は真実を教えてはくれないし、自分から手を伸ばすしかないんです。

『死』の真実を幾ら考えようったって、実体を掴んで確かめようったって、1回切りしか知ることはできないし、それを知った次の瞬間、もう一度手のひらで吟味して確かめるなんてことはできなくなるんですよね。

死ぬしか、死は、わからない。

 

ただただ、『生きる』を手のひらで転がしひっくり返し確かめ大事に握りしめて、しっかり楽しみたいです。

今やっていることは、絶対間違っている。『生きる』を感じることから遠かってる。

間違っている。自覚、持つべきです、私。