私に全てを賭けてくれ
世の中の短絡的な価値観として、「愛する人の人生に責任を取る」ためには『結婚』するしかないというのがある。それはまあ、一理あるのだが、それが、日本においては「『両性』における同意」が必須であること。それが悲しくてしかたがない。世の中の考えとしては、『『結婚』=『恋愛』の感情からなるもの=性愛ありき』というところも悲しい。どうして「人生の責任」に「性的関係」や「繁殖」が必要となる?
おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。本日2回目の記事は、飲酒の勢いに任せて書いています。だから適当さに拍車がかかるかも。よろしくおねがいします。ねこです。ねこはそこにいます。
いやあ、少子高齢化社会。「子を産む」という、なんと間接的で直接的なことを期待されているのでしょうか。社会政策、保障などを手薄にしておいてもなお、「子供を産まない女は欠陥品だ」とか言って、自分より若い、もっと言えばこどものせい、そして女性、女のせいにする。面白いじゃないですか、いやあ、けったいけったい。
それがあるからでしょうね、男女でないと結婚が許されない理由は。
さて、そんな『THE☆社会問題』的なことを薄い知識、弱い観点で書き連ねたってどうにもならないので(別にどうにかしようという気もないが)、私自身のどうでもいい「愛する人の人生に責任を取る」という価値観についてお話ししたいと思います。
『愛情』にも色々あって。でもまあ、「責任を取ろう」と『覚悟』というか、心の底から想える相手って相当だと思うんですよね。大体その『愛情』というか『愛しさ』というか。そういう感情を持ったってのは。その相手は『恋愛』として愛した人なんですよね。
しかし、それが『両性』によるものとは限らない。多方面から口酸っぱく言われてても変わらない現代の日本がここにはある。
まず、男女が恋に落ちるのが一般的として、男性と男性、女性と女性などが恋に落ちるのが『普通ではない』、『異常』とされるのが納得いかない。これはマイノリティーの主張である。
もっとマイノリティーからの観点を言うと、(私はそうではないので的外れになるかもしれないが、)恋愛感情や性愛とは別の愛しさを強く持つ人間もいて、双方が納得して深く愛し合う人たちだっている、その形が『あるべきではない』とされるのがとても気を良くすることができない。
私が提唱している「愛する人の人生に責任を取る」という形。それはひとえに日本で言う『結婚』という形でしか許されていないのがとても虚しく悔しくてしかたがないんですよね。
さて、「人生の責任を取る」とはどういうことか。個人の考えでしかないのですが。
『病めるときも、健やかなるときも、富めるときも、貧しきときも、愛し、敬い、慈しむ』
それが結婚でしか果たせない事由がたくさんあります。例えば入院・手術、扶養控除、同居、財産の後継人、他、直面したことがないため想像がつかないこと。人によったらお子さんが欲しい方がいらっしゃるかもしれません、そういうところでも非常に虚しく、悔しく、苦しい身に遭う。
病めるときも、貧しきときも、不自由して生きにくくなることが多すぎる!
どんな愛の形であったって、添い遂げたい人ができると、このままじゃいられないんですよね。このままじゃ。いろんな意味で。環境のせいで。
私にもそういう時が来るかもしれなくて。
言うて、私が当事者なわけではないんですよ。相手がいないし。男性を好きになることもあるし。そして、こんな社会問題を提示しておいて本題ではない。
本題は、「私の人生に責任を取ってくれる人」「私が人生の責任を取りたい人」がいないこと。それに対しての虚しさです。
男性にしても、女性にしても、出会いがなさすぎる!!
言うて、踏み出せない理由、言い訳がたくさんありすぎるんです。
まず、男性があまり好きではない、というか、怖い。男性との出会いなんて、男性の半額ほど払えば出逢える場だってたくさんあるんですよ。でも、怖い理由があるんです。経験上、好きになった男性にも、お付き合いした男性にも、苦手になる出来事があった。
男性って、優位に立ちたがり過ぎません?
いわゆるマウント。「自分の方が強い」「自分の方がものしりだ」という意識の上会話を挑んでくることが度々ある。それによってストレスや劣等感を与えることを彼らは無意識的にやっている。世の女性たちはそれを受け入れる強かさを持っているのだから、とんでもないな、と想像できないレベルに対して感心がある。それがどうしても肌に合わないことがあった。いくら、いくら優しい男性でも、優位に立とうと胸を張ろうとする態度が見えて疲れてしかたなかった。
女性と付き合えない理由もある。出逢おうとすればLBT向けのサイトやアプリは多数あるのだが。自信がない。顔を合わせて付き合ったとして、進展する気がしないんですよ。この年齢になると、結構、ティーンズよりも『進展』を重視してしまうんですよね。
20代後半、女性同士になると30歳、40歳、40歳後半……と未来を見据えてしまうところがあるんですよ。恋愛関係になって、人生の責任を取ろうと覚悟を得たところで、『生活の安定』を求める。いくら男女雇用機会均等を謡われているところで、敵わないことがある。ということは、互いが働いて、ふたりで暮らすための安定を図ることが必要になってくるんですよ。つまりは自立ができる経済力を持っていることが重要なんです。
生理的に or 環境的に難しいことがあるんです。好きになれば一気になんですが、これらの理由があって踏み出せない。いかに、自分が狭い人間なのか。小さな人間なのか。臆病すぎるんですよ。文句をつけて、理由をつけて踏み出そうとしていないんですよね。
実際問題、直面するとどうにでもなることがたくさんあると思うんです。
自分を好きになってもらえる自信がないんですよね。
この歳になって、『そこ』に至るまでの経験がなかったりする事実に大きなコンプレックスを持っていますし。暗く重い気分になることが多いため受け入れられなかったどころか陰口を叩かれてしまったり。
「自分は欠陥品だ」という自覚がえらく自分を縛り付ける。恋愛をするには不向きどころか「するべきではない」、「受け入れてもらえるわけがない」とタカを括っている。
自分で言ってて世話ないですよね。
こうして自分が恋愛に臆病な理由を挙げたところで何も進むことがないのはお察し。それでも求めてしまうんです。臆病なくせに。自分から求めないくせに。自分から跳ね返すくせに。
恋愛って、『家族『以外』』に『永遠』の『絶対的』な愛を求めるが故の感情じゃないですか。家族にいくら許されたところで、血縁以外の誰かに、全く違う誰かに、家族以外にも、ひょっとすると家族すら知らない自分を知ってもらって愛を持って接してほしいという感情だと思うんですよ。
そういう気持ちを、自分から求めずにして自分勝手に誰かから求めるなんて傲慢、あり得ます!?あり得ないと思います。
そんなこんなで、いい加減に、適当に、何の覚悟もなく愛されたがっています。認められたがっています。かつ、いい加減に、適当に、何の覚悟もなく愛したがっています。あわよくば、包み込んで、認めて、癒したがっています。
愛される要素も愛する甲斐性もないくせに。
結婚とかなしに、認めてほしい。ずっと。永遠に。絶対的に。