掠れた命にひと瓶の薬品を

初めてこういうことを書くのですが、本来のブログの意味を果たそうとようやく指を滑らせているところです。本来の意味、というか、理由というか。ふたつの意味を以てこのブログをはじめようと思っていました。ひとつは、オタ卒のこと。もうひとつは私の生き方を見つめ直すことです。まあ、オタ卒は断念してしまいオタ活の記事を書くことにしたのですが、それも楽しもうという所存です。

 

おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。誰も読んでいない中ちまちまと記事の更新を頑張りはじめたのですが、「誰も読んでいないこと」に対しての悲しさはあまりないです。他者に発信しようという気はあまりないので。誰かの心に引っかかったら嬉しいけど。薄い発言しかできない私にはちょっと無理があるかも。

そんなことを考えながら、何書こうか、と日常生活の中で無意識に考えています。

 

いきなりこんなこと言っちゃあ何ですけど、くるしいんですよね。

生きることが。『生きる』をすることが。

別に「死にたい」ってんじゃあないんですよ。死にたくないからこそ生きているんです。私。生きる原動力というか、生きていられる理由が「死にたくない」なんです。

「死にたくないから生きる」っていう動機、虚しくないですか?何のために生きるでもなく、ただただ死なないために生きている。それ以外の目標がないから中身がからっぽのまんまなんですよ。いい加減だと思います、生き方が。みなさんは、何のために生きていますか。

 

私が「死にたくない」と切に願って、願って、願いすぎて頭がおかしくなる理由はたったひとつ。すごく幼稚で、稚拙で、どうでもいい理由。「死ぬのが怖い」んですよね。

だって、普通、死ぬの怖くないですか?死んだ後って考えたことあります?誰だってあると思います。果てしない無が広がっているという解釈を一度くらいはしたことがあると思います。「思います」としか言えない理由は、他人の思想なんてそう簡単に知った風にいられないからなんですけど。けど、他の「死後についての解釈」を私は知っています。この世にありふれすぎているから。耳にタコができるくらい、目にものもらいができるくらい、ありふれているんですよ。多くの人にとっては「当たり前」という価値観を擦り込むくらい。

・天国と地獄の存在

・霊の存在

・輪廻転生と解脱

ざっと想像できるのがこれなんですけど、どうですか。私が思い付く物の少なさ、薄さ。でも思うんです、他に何かあって思い出せないだけでいるんですけど、結局は殆どの理由が、みんな、『救い』を求めてるんですよね。「良い行いをすれば天国で良い暮らしができる」とか、「生死のはざまには花畑と川があって、霊体で渡るか渡らないかが瀬戸際だ」とか、「前世の行いで来世では善人になるか畜生になるかが決まる」とか。生きている今を死後に反映させて、報われることを望んでいる。頑張って生きたんだから、こんなにつらいんだから、死んだ後くらい楽しかったって楽だったっていいよね、みたいな。

だがしかし、そこには楽はない、楽しいもない。幸せはない。さらに言うと地獄の苦しさも不幸も存在しない。

何もない。無い。

有無の話で考えるのがそもそもおかしいのかもしれない。可笑しい。ウケる。 そもそも私たち、どこから来ましたか?地獄ですか?天国ですか?記憶がないだけで前世から巡ってきたとか考えてないですか?パパのちんちんから出る前、精巣にいる前、精巣を持っているパパが産まれる前、私たちはどこにいましたか?そのパパがそのパパのおちんちんの中にいたときに私たちはいましたか?いないんですよ。そして、私は、私なりの思想に辿り着いているんです。

死んだ後は生まれる前に戻るということだと。

いなくなります。なくなります。還ります。帰し(きし)ます。

 

はてさて、私の死への考えを主張したとして、「何故怖いのか」というのをここから書き連ねたく思います。

大多数の人が「死後には『救い』がある」という考えが根源にあり、縋ることにより心のプラマイの均衡を保っていると思われますが、私にはまずその『死後の救い』というものが存在しないと信じています。死後の無。何もない。無い。

無いってどういうことですか?

まず、死んだ後自分の身体はどうなるのかを考えましょう。一節によると、死ぬときにまず視覚、次に聴覚、と少しずつ失われるらしいのですが、それを聞かずしても想像できるはずです。最終的には冷え切り体温もなく、血の循環が完全に止まり人間の形をした何かになることを。『生き物』ではなくなります。『生きていた物』です。もはや、『物』でしかありません。物になった人間は人間でなくなり、何もかもが消える、というよりはやはり、何もかもが無くなるのです。身体を失くすのです。身体を失くすとどうなるのか。五感を失います。

そもそもの『五感』と呼ぶには少し言葉足らずでもっと細かく多くの感覚を私たちヒトは持っているのですが、それを失うとどうなるのでしょうか。感じなくなるということは、感覚から得られる情報がひとつも、ミリ単位も、それ以下の単位も、ゼロというにも馬鹿馬鹿しいほど無くなります。

人間は五感、それ以上の何かたちを利用して感情を得ます。感情は感想の上に成り立ちます。五感を使って得た感想によって人々の感情は動き、その人々と関わる中で感想と感想、感情と感情が交差してまた感情が発生します。五感とそれ以外の何かたちを失くすということはすなわち、感情を失くすということ。

感情を失う。それが私が死を怖がる理由です。

 

もともと、感情的に生きている人間でした。人間です。感情的故に、もっと感情を滾らせることを求め、情動的に生きたい人間です。

燃やして、燃やして、燃やし続けたい。燃やし尽くせるものは全て燃やし尽くして、また燃やせるものを得てまた感情を燃やしたい。それを以てして生きている実感を手に入れたい。

「生きている実感」、すなわち「『生きる』を感じる」こと。それから離れがたいのです。

 

 それから離れがたいので生きている。生きることができている。なんて幸せなことでしょう。

しかし、私はそれだけでは終わらないんです。贅沢かもしれないですが。終われないんです。どうしても、先を、感じることができなくなる先を考えてしまう。生きて、感情を失い、五感を失うことを恐れて、毎日、怖くて怖くて仕方なくなりながら生きている。

生きるの、怖いです。つらいです。「死が怖い」と思いながら毎日『生きる』をやっている。毎日毎日、今、この瞬間だって怖い。怖がって、生きている。『死』を怖がって、「『死』を怖がりながら『生きる』をする」のを恐れながら生きている。だからつらいんです。だから生きるのに疲れるんです。

 

生きるのに疲れた人って、『生きる』という状態から離れて救済を求めるが故に、『生』から解放されるために『死』を選び、願い、ときには実行する人がいます。「死にたい」なんて考えるのが常な人だって、そこまで重く病んでいない人だって、救いを求めて「死にたい」と願う人だっている。というか、私の知る限りでは圧倒的に多い。

でも、私の場合『生きる』をするに疲れてる理由が『死にたくないと願い過ぎ』ということなので、死を願おうにも願えないし、その願いすら間違いに思っている。

 

生きること。感じること。

それに執着しすぎて死にたくないのです。

でもいずれは人は死ぬ。わかってる。好きな芸能人、近所の高齢者、親戚、祖父母など……。『死』が、『他者の死』、『自分以外の死』が身近であればあるほど、「自分もいつか死ぬんだ」と実感させられ、気が狂いそうになる。

くるしいです。毎日が。

 

救いなんてない。少なくとも、死の先には、ない。無い。

 

 死んで感情を失うよりは、生涯というよりは、永遠に、無量大数を超えてでも痛みを患うか感情のマイナスに襲われるかして生き永らえている方を選びたい。それくらい、『生きる』というか『感じる』というか、『生きている実感』に取り憑かれています。

 

 

 

故に、生きるのがつらい!!しんどい!!生きたい!!という記事でした。

無、怖えな。