深淵はこちらを覗いても、真実はこちらを覗かない

このご時世ひりついて外に出るのも怖がっているくせに、わざわざ会社を休んでまで書いているブログは楽しいか?いや、別に楽しいから書こうと思ったわけではないのですが。わざわざ休んでまで書きたかった。心の整理をする時間が欲しくて仕方なかったんです。

そういうわけで、「気持ちが落ち着かない」という理由を述べて早退してきました。心に欠陥があることは入社当時からお伝えしており、先日会社の手助けもあり緊急搬送されるくらいには認知されているので、疑われなかったでしょう。

 

 

おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。皆さんお元気でしょうか?私はまあまあです。はあ。今月に入ってたらふくODを繰り返していながらも「まあまあ」と言ってしまう、この状況理解力のなさ。ウケますね。マジウケる〜です。

ODを繰り返す理由はただひとつ。「楽しいから」。それ以外に理由がないです。そして、ODを決意した瞬間、それ以外に「楽しさ」を得ようとする方法が頭から消し飛びます。

別に、憂さ晴らしでODをしているわけではないです。という解釈です。良くないことをしている自覚はありますが、きちんと強く自覚しているわけではないので、繰り返しているのだと思います。

 

OD、後悔はするけど反省ができない問題。

 

ODで祖母を幾度困らせても、会社で騒動を起こしても。懲りずに、「これくらいなら」と調子に乗って内服量を増やしていく。よくないです。

それに。他者に迷惑をかけた後悔、申し訳なさ。脳の働きが通常ではなくなっていたことへの不安感。それを自覚し恐ろしくなり、幾ら後悔して、ごめんなさい、やるんじゃなかった、と思ったか。

それでも、飲んでるんですよね。

反省、できない。心の底からごめんなさいを思えていないし、自分のことしか考えていない。というか、自分のことすら考えていません。そんな私に返ってくるものなどない。

……いや?返ってくるものなんか求めてないですね。一時的、刹那的な「快」しか求めてないんですね。

 

常日頃、やはり『生きる』をするのは難しくて、つらくて、しんどくて。でも、『生きる』を感じるのは楽しい。それを感じているときは遠く離れていられます。「『死ぬ』に陥るのが怖い」という感覚から。つまり、逆に、「『生きる』をするのが楽しい」から遠く離れたとき、『死ぬ』に陥ることに対しての不安感がどっと押し寄せます。

 

死ぬ。死。死後。

何があるのか、わからない。本当のとこ、どういうものが待っているのかわからない。考えても、考えても、感じることができないものはできないんですよね。『感じる』がなくなってしまうのだから、死ぬまで無理です。死んでからの話です。

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。でも、真実を幾ら見つめ、探り、確かめようとしても、真実はただ鎮座したまま、こちらを見向きもしない。真実は真実を教えてはくれないし、自分から手を伸ばすしかないんです。

『死』の真実を幾ら考えようったって、実体を掴んで確かめようったって、1回切りしか知ることはできないし、それを知った次の瞬間、もう一度手のひらで吟味して確かめるなんてことはできなくなるんですよね。

死ぬしか、死は、わからない。

 

ただただ、『生きる』を手のひらで転がしひっくり返し確かめ大事に握りしめて、しっかり楽しみたいです。

今やっていることは、絶対間違っている。『生きる』を感じることから遠かってる。

間違っている。自覚、持つべきです、私。

 

私に全てを賭けてくれ

世の中の短絡的な価値観として、「愛する人の人生に責任を取る」ためには『結婚』するしかないというのがある。それはまあ、一理あるのだが、それが、日本においては「『両性』における同意」が必須であること。それが悲しくてしかたがない。世の中の考えとしては、『『結婚』=『恋愛』の感情からなるもの=性愛ありき』というところも悲しい。どうして「人生の責任」に「性的関係」や「繁殖」が必要となる?

 

おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。本日2回目の記事は、飲酒の勢いに任せて書いています。だから適当さに拍車がかかるかも。よろしくおねがいします。ねこです。ねこはそこにいます。

 

いやあ、少子高齢化社会。「子を産む」という、なんと間接的で直接的なことを期待されているのでしょうか。社会政策、保障などを手薄にしておいてもなお、「子供を産まない女は欠陥品だ」とか言って、自分より若い、もっと言えばこどものせい、そして女性、女のせいにする。面白いじゃないですか、いやあ、けったいけったい。

それがあるからでしょうね、男女でないと結婚が許されない理由は。

 

さて、そんな『THE☆社会問題』的なことを薄い知識、弱い観点で書き連ねたってどうにもならないので(別にどうにかしようという気もないが)、私自身のどうでもいい「愛する人の人生に責任を取る」という価値観についてお話ししたいと思います。

 

『愛情』にも色々あって。でもまあ、「責任を取ろう」と『覚悟』というか、心の底から想える相手って相当だと思うんですよね。大体その『愛情』というか『愛しさ』というか。そういう感情を持ったってのは。その相手は『恋愛』として愛した人なんですよね。

しかし、それが『両性』によるものとは限らない。多方面から口酸っぱく言われてても変わらない現代の日本がここにはある。

 

まず、男女が恋に落ちるのが一般的として、男性と男性、女性と女性などが恋に落ちるのが『普通ではない』、『異常』とされるのが納得いかない。これはマイノリティーの主張である。

もっとマイノリティーからの観点を言うと、(私はそうではないので的外れになるかもしれないが、)恋愛感情や性愛とは別の愛しさを強く持つ人間もいて、双方が納得して深く愛し合う人たちだっている、その形が『あるべきではない』とされるのがとても気を良くすることができない。

 

私が提唱している「愛する人の人生に責任を取る」という形。それはひとえに日本で言う『結婚』という形でしか許されていないのがとても虚しく悔しくてしかたがないんですよね。

さて、「人生の責任を取る」とはどういうことか。個人の考えでしかないのですが。

『病めるときも、健やかなるときも、富めるときも、貧しきときも、愛し、敬い、慈しむ』

それが結婚でしか果たせない事由がたくさんあります。例えば入院・手術、扶養控除、同居、財産の後継人、他、直面したことがないため想像がつかないこと。人によったらお子さんが欲しい方がいらっしゃるかもしれません、そういうところでも非常に虚しく、悔しく、苦しい身に遭う。

病めるときも、貧しきときも、不自由して生きにくくなることが多すぎる!

 

どんな愛の形であったって、添い遂げたい人ができると、このままじゃいられないんですよね。このままじゃ。いろんな意味で。環境のせいで。

私にもそういう時が来るかもしれなくて。

 

 

言うて、私が当事者なわけではないんですよ。相手がいないし。男性を好きになることもあるし。そして、こんな社会問題を提示しておいて本題ではない。

本題は、「私の人生に責任を取ってくれる人」「私が人生の責任を取りたい人」がいないこと。それに対しての虚しさです。

 

 

 男性にしても、女性にしても、出会いがなさすぎる!!

言うて、踏み出せない理由、言い訳がたくさんありすぎるんです。

 

まず、男性があまり好きではない、というか、怖い。男性との出会いなんて、男性の半額ほど払えば出逢える場だってたくさんあるんですよ。でも、怖い理由があるんです。経験上、好きになった男性にも、お付き合いした男性にも、苦手になる出来事があった。

男性って、優位に立ちたがり過ぎません?

いわゆるマウント。「自分の方が強い」「自分の方がものしりだ」という意識の上会話を挑んでくることが度々ある。それによってストレスや劣等感を与えることを彼らは無意識的にやっている。世の女性たちはそれを受け入れる強かさを持っているのだから、とんでもないな、と想像できないレベルに対して感心がある。それがどうしても肌に合わないことがあった。いくら、いくら優しい男性でも、優位に立とうと胸を張ろうとする態度が見えて疲れてしかたなかった。

 

女性と付き合えない理由もある。出逢おうとすればLBT向けのサイトやアプリは多数あるのだが。自信がない。顔を合わせて付き合ったとして、進展する気がしないんですよ。この年齢になると、結構、ティーンズよりも『進展』を重視してしまうんですよね。

20代後半、女性同士になると30歳、40歳、40歳後半……と未来を見据えてしまうところがあるんですよ。恋愛関係になって、人生の責任を取ろうと覚悟を得たところで、『生活の安定』を求める。いくら男女雇用機会均等を謡われているところで、敵わないことがある。ということは、互いが働いて、ふたりで暮らすための安定を図ることが必要になってくるんですよ。つまりは自立ができる経済力を持っていることが重要なんです。

 

生理的に or 環境的に難しいことがあるんです。好きになれば一気になんですが、これらの理由があって踏み出せない。いかに、自分が狭い人間なのか。小さな人間なのか。臆病すぎるんですよ。文句をつけて、理由をつけて踏み出そうとしていないんですよね。

実際問題、直面するとどうにでもなることがたくさんあると思うんです。

 

自分を好きになってもらえる自信がないんですよね。

この歳になって、『そこ』に至るまでの経験がなかったりする事実に大きなコンプレックスを持っていますし。暗く重い気分になることが多いため受け入れられなかったどころか陰口を叩かれてしまったり。

「自分は欠陥品だ」という自覚がえらく自分を縛り付ける。恋愛をするには不向きどころか「するべきではない」、「受け入れてもらえるわけがない」とタカを括っている。

自分で言ってて世話ないですよね。

 

こうして自分が恋愛に臆病な理由を挙げたところで何も進むことがないのはお察し。それでも求めてしまうんです。臆病なくせに。自分から求めないくせに。自分から跳ね返すくせに。

 

恋愛って、『家族『以外』』に『永遠』の『絶対的』な愛を求めるが故の感情じゃないですか。家族にいくら許されたところで、血縁以外の誰かに、全く違う誰かに、家族以外にも、ひょっとすると家族すら知らない自分を知ってもらって愛を持って接してほしいという感情だと思うんですよ。

そういう気持ちを、自分から求めずにして自分勝手に誰かから求めるなんて傲慢、あり得ます!?あり得ないと思います。

 

そんなこんなで、いい加減に、適当に、何の覚悟もなく愛されたがっています。認められたがっています。かつ、いい加減に、適当に、何の覚悟もなく愛したがっています。あわよくば、包み込んで、認めて、癒したがっています。

愛される要素も愛する甲斐性もないくせに。

結婚とかなしに、認めてほしい。ずっと。永遠に。絶対的に。

掠れた命にひと瓶の薬品を

初めてこういうことを書くのですが、本来のブログの意味を果たそうとようやく指を滑らせているところです。本来の意味、というか、理由というか。ふたつの意味を以てこのブログをはじめようと思っていました。ひとつは、オタ卒のこと。もうひとつは私の生き方を見つめ直すことです。まあ、オタ卒は断念してしまいオタ活の記事を書くことにしたのですが、それも楽しもうという所存です。

 

おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。誰も読んでいない中ちまちまと記事の更新を頑張りはじめたのですが、「誰も読んでいないこと」に対しての悲しさはあまりないです。他者に発信しようという気はあまりないので。誰かの心に引っかかったら嬉しいけど。薄い発言しかできない私にはちょっと無理があるかも。

そんなことを考えながら、何書こうか、と日常生活の中で無意識に考えています。

 

いきなりこんなこと言っちゃあ何ですけど、くるしいんですよね。

生きることが。『生きる』をすることが。

別に「死にたい」ってんじゃあないんですよ。死にたくないからこそ生きているんです。私。生きる原動力というか、生きていられる理由が「死にたくない」なんです。

「死にたくないから生きる」っていう動機、虚しくないですか?何のために生きるでもなく、ただただ死なないために生きている。それ以外の目標がないから中身がからっぽのまんまなんですよ。いい加減だと思います、生き方が。みなさんは、何のために生きていますか。

 

私が「死にたくない」と切に願って、願って、願いすぎて頭がおかしくなる理由はたったひとつ。すごく幼稚で、稚拙で、どうでもいい理由。「死ぬのが怖い」んですよね。

だって、普通、死ぬの怖くないですか?死んだ後って考えたことあります?誰だってあると思います。果てしない無が広がっているという解釈を一度くらいはしたことがあると思います。「思います」としか言えない理由は、他人の思想なんてそう簡単に知った風にいられないからなんですけど。けど、他の「死後についての解釈」を私は知っています。この世にありふれすぎているから。耳にタコができるくらい、目にものもらいができるくらい、ありふれているんですよ。多くの人にとっては「当たり前」という価値観を擦り込むくらい。

・天国と地獄の存在

・霊の存在

・輪廻転生と解脱

ざっと想像できるのがこれなんですけど、どうですか。私が思い付く物の少なさ、薄さ。でも思うんです、他に何かあって思い出せないだけでいるんですけど、結局は殆どの理由が、みんな、『救い』を求めてるんですよね。「良い行いをすれば天国で良い暮らしができる」とか、「生死のはざまには花畑と川があって、霊体で渡るか渡らないかが瀬戸際だ」とか、「前世の行いで来世では善人になるか畜生になるかが決まる」とか。生きている今を死後に反映させて、報われることを望んでいる。頑張って生きたんだから、こんなにつらいんだから、死んだ後くらい楽しかったって楽だったっていいよね、みたいな。

だがしかし、そこには楽はない、楽しいもない。幸せはない。さらに言うと地獄の苦しさも不幸も存在しない。

何もない。無い。

有無の話で考えるのがそもそもおかしいのかもしれない。可笑しい。ウケる。 そもそも私たち、どこから来ましたか?地獄ですか?天国ですか?記憶がないだけで前世から巡ってきたとか考えてないですか?パパのちんちんから出る前、精巣にいる前、精巣を持っているパパが産まれる前、私たちはどこにいましたか?そのパパがそのパパのおちんちんの中にいたときに私たちはいましたか?いないんですよ。そして、私は、私なりの思想に辿り着いているんです。

死んだ後は生まれる前に戻るということだと。

いなくなります。なくなります。還ります。帰し(きし)ます。

 

はてさて、私の死への考えを主張したとして、「何故怖いのか」というのをここから書き連ねたく思います。

大多数の人が「死後には『救い』がある」という考えが根源にあり、縋ることにより心のプラマイの均衡を保っていると思われますが、私にはまずその『死後の救い』というものが存在しないと信じています。死後の無。何もない。無い。

無いってどういうことですか?

まず、死んだ後自分の身体はどうなるのかを考えましょう。一節によると、死ぬときにまず視覚、次に聴覚、と少しずつ失われるらしいのですが、それを聞かずしても想像できるはずです。最終的には冷え切り体温もなく、血の循環が完全に止まり人間の形をした何かになることを。『生き物』ではなくなります。『生きていた物』です。もはや、『物』でしかありません。物になった人間は人間でなくなり、何もかもが消える、というよりはやはり、何もかもが無くなるのです。身体を失くすのです。身体を失くすとどうなるのか。五感を失います。

そもそもの『五感』と呼ぶには少し言葉足らずでもっと細かく多くの感覚を私たちヒトは持っているのですが、それを失うとどうなるのでしょうか。感じなくなるということは、感覚から得られる情報がひとつも、ミリ単位も、それ以下の単位も、ゼロというにも馬鹿馬鹿しいほど無くなります。

人間は五感、それ以上の何かたちを利用して感情を得ます。感情は感想の上に成り立ちます。五感を使って得た感想によって人々の感情は動き、その人々と関わる中で感想と感想、感情と感情が交差してまた感情が発生します。五感とそれ以外の何かたちを失くすということはすなわち、感情を失くすということ。

感情を失う。それが私が死を怖がる理由です。

 

もともと、感情的に生きている人間でした。人間です。感情的故に、もっと感情を滾らせることを求め、情動的に生きたい人間です。

燃やして、燃やして、燃やし続けたい。燃やし尽くせるものは全て燃やし尽くして、また燃やせるものを得てまた感情を燃やしたい。それを以てして生きている実感を手に入れたい。

「生きている実感」、すなわち「『生きる』を感じる」こと。それから離れがたいのです。

 

 それから離れがたいので生きている。生きることができている。なんて幸せなことでしょう。

しかし、私はそれだけでは終わらないんです。贅沢かもしれないですが。終われないんです。どうしても、先を、感じることができなくなる先を考えてしまう。生きて、感情を失い、五感を失うことを恐れて、毎日、怖くて怖くて仕方なくなりながら生きている。

生きるの、怖いです。つらいです。「死が怖い」と思いながら毎日『生きる』をやっている。毎日毎日、今、この瞬間だって怖い。怖がって、生きている。『死』を怖がって、「『死』を怖がりながら『生きる』をする」のを恐れながら生きている。だからつらいんです。だから生きるのに疲れるんです。

 

生きるのに疲れた人って、『生きる』という状態から離れて救済を求めるが故に、『生』から解放されるために『死』を選び、願い、ときには実行する人がいます。「死にたい」なんて考えるのが常な人だって、そこまで重く病んでいない人だって、救いを求めて「死にたい」と願う人だっている。というか、私の知る限りでは圧倒的に多い。

でも、私の場合『生きる』をするに疲れてる理由が『死にたくないと願い過ぎ』ということなので、死を願おうにも願えないし、その願いすら間違いに思っている。

 

生きること。感じること。

それに執着しすぎて死にたくないのです。

でもいずれは人は死ぬ。わかってる。好きな芸能人、近所の高齢者、親戚、祖父母など……。『死』が、『他者の死』、『自分以外の死』が身近であればあるほど、「自分もいつか死ぬんだ」と実感させられ、気が狂いそうになる。

くるしいです。毎日が。

 

救いなんてない。少なくとも、死の先には、ない。無い。

 

 死んで感情を失うよりは、生涯というよりは、永遠に、無量大数を超えてでも痛みを患うか感情のマイナスに襲われるかして生き永らえている方を選びたい。それくらい、『生きる』というか『感じる』というか、『生きている実感』に取り憑かれています。

 

 

 

故に、生きるのがつらい!!しんどい!!生きたい!!という記事でした。

無、怖えな。

「あの頃」で夢見た「今」への執着

いよいよのいよいよ、「もうすぐ俺がやってくるぞお~~」と冬が脅かしてきましたね。季節で一番嫌いなのは、腹壊しがちになり、指先冷やしがちになり、引きこもりがちになる冬です。雪は好きなんですけどね。はしゃげるし、まっさらなほど真っ白な色に癒されるし、溶けている途中で土が混じって茶色くなるのもなんだかうっとりします。

 

それよりもコート買わなきゃな。仕事ではサブカル系の服を着てて、オフの日はできるだけかわいく、女子アナっぽくキメたいものなのですが、前者のためのウィンドブレーカーはしわしわ、後者のためのコートは黒がハゲてきました。無理もない、たぶんどちらも5年は持たせたのだもの。別れがたいけど新しいのが欲しいところです。

両者共合わせて着られるコートを購入したいのですが、どうも食指が伸びず……。最近気になるのはこれ。

figure-online.net

これ、なにわ男子くんの高橋恭平くんが、エアGOGOEXPOの島動画で着てたんですよ。めちゃくちゃかわいくないですか?

j-island.net

ご参考に。

でもこれじゃあ、カンワイイ服には似合わないんだよなあ……そして「アホか?」って言いたいくらいの値段だし……。サブカル系にも女子アナ系にも似合うのならそれくらい出せるのにな……。断念。

 

 

そんなこんなでこんばんは。おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。今日は、ここ2年で起こったある出来事について言及していきたいと思います。「あの」出来事です。私は、『私たち』は、大きな事件に、事変に、遭遇してしまったのです。

 

 

とある4月の日曜日、祖母といつも通りのんびりとアッコにおまかせを観ていたときの話です。突然に緊急会見の映像が流され、その画面にはスーツ姿の6人の姿が現れました。堂々と話す彼の姿に心がぐらぐらと揺れるのを感じながら、他のメンバーの顔をどういう気持ちで見ればいいのか正直わからなかったです。それでも動揺は7~8割ほど。覚悟こそなかったものの、発表された詳細には納得しかありませんでした。

 

関ジャニ∞渋谷すばるの脱退。

 

おかしな話、納得してしまったのは、腑に落ちてしまったのは、彼の生き方に対して大きな信頼があったからだと思います。彼の音楽性に対して大きな信頼があったからだと思います。「お前に何がわかるんだ」ともうひとりの自分が私を蔑んでも、確信があった。

渋谷すばるはここで留まっているような人間ではない」と。

 私が知っている彼は非常に敏感な人でした。そして大きな人間でした。繊細で、自分の大事なものを大切に、大切に抱えて生きている人でした。それは、彼の『音楽』という概念にとても大きく作用しました。

 

歌を作っている人の数人が言っていたのを知っています。歌詞にもなっています。

「歌のために生きているわけではないけど、結局は生きている中で起きたこと・感じたことが歌になっちゃうんだよね」

 

彼も、渋谷すばるもそっちの人間でした。確実に。徹底的に。届け、語りかけ、伝え、命を燃やす人間でした。私が見てきた渋谷すばるはまさにそういう人でした。

 

関ジャニ∞は、4年ほど前に大きく音楽に関わる番組を始めましたよね。そう、関ジャム。アイドルを精一杯やる手段として歌って踊る、手を振ってコーレスを繰り返すだけではなく、結成当初からバンドで自分たちの魅力を伝えようとしている彼らにとって、とても大きな刺激・勉強となる番組だよな、と思っています。その番組で色んなジャンルの曲・楽器についての情報量が増える度に、音楽に関わることの難しさ・たのしさ(楽しさ・愉しさ)・つらさ・よろこび(喜び・悦び)について、自分なりの価値観が確固たるものになる番組だなと。音楽構成や音の違い、その時代の流行、作曲者が影響されたものなど……音楽に明るくない私でもすごく楽しく、わかりやすい内容が好きです。

渋谷すばるは緊急会見時にこんなことも言っていました。

「音楽というものをいままでちゃんと勉強したことがないんで、そいうった音楽の学校なのかというのも、いろいろあるんで、そういう所にまずは行って学びたいなと」

これって、絶対(って言うとこじつけですが)関ジャムの「お陰」で、関ジャムの「せい」ですよね? ただでさえ意志が強い彼が、今まで執着してきた『音楽』に確固たる確信を持ってしまえば、どうなるでしょう。

 

絶対、彼はここでは留まらない人間だと思うんですよ。命を燃やすだけ燃やせるなら、全て『歌』に費やしたい、尽くしたい。そういう人間だと思うんですよ。

 

仕方ない、仕方ないことです。

 

 

もちろん別件があって。

 

 

いつもは昼寝に使う仕事の中間休みになんとなくスマホを覗いたときのことです。ロック画面にメールを受信した旨の通知があり、それを開くとこの文字が踊っていました。

 

関ジャニ∞ファンクラブ メール伝言板

2019/9/5号

―――――――――――――――――――――

    ファンの皆さまへお知らせ

―――――――――――――――――――――

 ▼関ジャニ∞よりファンの皆さまへ大切なお知らせ

があります。

 

なんのことか瞬時にわかってしまいました。でも、助けを求めるかのように、同じ気持ちを分かち合おうとしたかったのか、信じていない・思い当たりがない人を探したかったのか、すぐにツイッターで「大切なお知らせ」と検索していました。その間も、中間休みが終わり仕事を再開した後も、胸の中心の鼓動の大きさは変わることなく煩わしいほどでした。4月のことがあったから。あの報道であの脱退だから。

動画がアップロードされたのが16時。私が退勤したのは17時5分くらい。会社の階段を降りながら動画が上がっているのを確認し、長さも加味して画面を閉じ、タイムカードを押して外に出て歩きスマホ(危ないな、でもこのときだけは許してくれ(許されるわけはない))で動画を再生しました。

 

「僕たち5人で活動する運びになりました」

 

これからも頑張りますんで、かっこ悪い俺らに着いてきてください。そんな内容。その動画に当の本人はおらず、『錦戸亮』『錦戸さん』『亮』『亮ちゃん』どころか、『彼』の言葉もありませんでした。彼も声明文を残したのみで、動画も何もなく(それは別に良いけど……)、その日を境にエイトレンジャーの更新も途絶えました。当日のエイトレンジャーは、他のメンバーの更新もありませんでした。自粛モードでした。

 

わかってたんです。でも、わからなかった。報道に踊らされながらも、いざ現実になると「あーね」という感想がよぎりました。でも、報道を知ったときの頃の気持ちや考えを思い出すとやはりわからなかった。『関ジャニ∞』から抜け、『関ジャニ∞錦戸亮』を辞めたところで、彼をバックアップする人間は?信頼してオファーしてくれるメディアは?やはり、わからなかった。今でも少しわからない。『関ジャニ∞』というブランドを無くして芸の道を歩いていけるのか、疑問でしかなかった。

 

でも、私は彼の音楽性にも信頼していたんですよ。歌詞やメロディや音楽構成がすごく好きだったんです。まさに『刺さる』という感覚。まず、彼の独りよがりとも呼べる曲と、メンバー(他者)の魅力を引き出す曲が好きだったし、使い分けも良かった。自分の気持ちをメンバーの気持ちを擦り合わせようとする歌が好きだった。

 

彼は、感情で生きている人間だと思うんですよね。利己的とか、そういうものではなく。芸の世界で生きながら、どれだけ自分を魅せられるか。この間話した『アイドル論』にもすごく当てはまる、『自己承認欲求の塊』なんですよ。そこが人間臭くて、錦戸亮を愛すべき動機だ。

自己を認めてほしくて、愛してほしくて、誰かに思いを「伝える」に専念したくなったのだと思う。寄り添う、届ける。それもしたい。けど、それが(も)大きくちゃ疲れる。とにかく、自分の今を知ってもらうために、伝えて、伝えて、感情を全部肯定してほしい。こじつけでしかないと思いますが。そういうことだと思います。

 

「弱音吐くより、虚勢を張ってる方が好き」

すばるくんが脱退したときのレンジャーの抜粋です。ジャムのドキュメンタリーでもそんな風なことを言っていたような気がします。そんな泥まみれの根性がすごく愛しかった。私もそうだった。中途半端に生きている自分が恥ずかしかった。(今でも、画面の向こうで、ラジオの向こうで誰かががむしゃらになっているのを感じるとすごく恥ずかしい。このケジメ、いつ決着がつくのだろうか)だから、余計に愛おしく思った。

 

だから、私は彼の生き方に賛同したい。応援したい。前者の彼だって、生き方を称えたい。崇めたい。

 

 

でもね。

 

 

このふたり、共通することがあるんですよ。

いや、このふたり以外にも身に染みるほど強く伝えてくれるのですが。彼らの中で人一倍強かった。

 

「何年後も、何十年後も」「永遠と呼べるまで永遠に」

 

関ジャニ∞とファン・eighter がいつまでも、いついつまでも、一緒にいようと。明確に願いを、祈りを、執着を。伝えてくれたのが、ふたりでした。

そこにあったのは確かに、愛でした。

 

脱退を決意した瞬間の彼らの胸に、「あの頃」で夢見た「未来」である「今」に、そしてこれから先に、関ジャニ∞とeighter が一緒に居て、そこに自分がいるという「事実」があっただろうか。

 「あの頃」みんなと一緒に夢見た「今」が、私はこんなことになるとは思わなかったよ。

 

所詮、「永遠」なんて、「絶対」なんて、「約束」なんてないんです。

「現実に裏切られても、アイドルは裏切らない」そんなことはないんです。

 

 

私は、大いに裏切られたと思うよ。「みんな」と居たはずの「今」を、捨てられたと思ってる。

だから、永遠に許さないんだ。何があったって。

 

でも、彼らの活動は嬉しく思うし、生き方を尊重したく思います。なにせ、愛すべき人間性を持ったふたりなので。これからも、愛していく。ずっと。

 

 

でも、許さないからね。一生、許さない。「あの頃」夢見た「今」を「守れなかった」事実に、執着していきます。ずっと、ずっと。

 

 

8人まるっと大好きだよ。 

 

 

言いながら、すばるくんの会見のまとめ記事を読み返してほろほろと泣いてます。カフェオレ片手に。

 

 

 

 

「歌のために生きているわけではないけど、結局は生きている中で起きたこと・感じたことが歌になっちゃうんだよね」って色んなところで知ったときに思ったのが、「所詮人間は人間だしなあ。同じ国で似たような生活を送っているのだから、歌詞やメロディが被っても普通だよなあ」です。パクリとかオマージュとか言うけど、作為的なこともあれば、そういうことも大いにあると思います。

何故、今、なにわ男子なのか 何故、今、バーチャルなのか

6月末ごろの非・意識的禁酒を解放しました。何ってないんですが、その頃「さすがに週3はヤバい」「普通に金がない」という考えが浮かび唐突に冷静になった結果です。長期的な計画は立ててなかったです。そしてふらっと、先週の月曜に解禁いたしました。『あすかなの初楽曲解禁祝い』だったので……。そして、6日開いて、今、鬼ころしを飲んでいます。アルコール分14度。先週飲んだほろよい白いサワーは3度だったけども、久々の度数のきついお酒は、くっ、と来ます。

にしてもやっぱりこいつ(鬼ころし)、甘いな。パッケージに似合わずして。

 

 

おはようございます、こんにちは、こんばんは。まがりです。

オタクを辞めるのをやめて、そこそこ楽しい毎日を送らせていただいているのですが、結局のところやりたいことに手を着けることはできていませんね。それが逃げか甘えかと表現しようものならどちらもご名答なのですが。でも最近やきもきする瞬間も増えてきていて、仕事中なんかは胃の中が胃酸ごと空っぽになったかのようなスッカスカな気持ちと共に身体を冷やしたかのような痛みが襲ってきます。

それはさておいて。

 

 

今、私の中で最もアツいのが、『バーチャルジャニーズプロジェクト』という企画です。『第一弾』として配信をスタートさせたのが「あすかな」というふたりの高校生アイドルです。

仮想空間でおしゃべりするのは、

ちょっぴり頭が足りなくて、すぐにバカデカボイスを発してはしゃぐ、でも家庭的で意外としっかりものの、明るくてかわいい高校2年生、苺谷星空くん。

金髪碧眼の、絵に描いたような「容姿端麗」の見た目をしていながら絵は描けない、ツンデレで実は甘えん坊の高校1年生、海堂飛鳥くん。

 この2人が1つずつ持った部屋で、日常生活やお互いのことを話し視聴者にお届けする。そして視聴者はコメントを返す。

そんな企画となっています。

(私の下手くそすぎる日本語じゃ言い表し切れていないので、ご存じない方、興味を持っていただけた方は是非とも

バーチャルジャニーズプロジェクト公式 - YouTube をご覧くださいね!!!!(苺ちゃんに負けないバカデカボイス))

 

その仮想空間が配信されているのは、AKB48をはじめとした48グループや46グループの配信を観ることができて視聴者はコメントをし、ワンチャンあればメンバーから返事がくるのが話題となったこともあった、SHOWROOM。そして、この企画の発起人がSHOWROOM株式会社代表の前田裕二さんなんですよね。シャッチョサンですよ、シャッチョサン。

そのシャッチョサンが発起していただいたことに対して驚いているのは、企画名にもある『バーチャル<<ジャニーズ>>プロジェクト』という内容が自分の中にすごく大きな衝撃を起こしたからだ。<<<<ジャニーズ>>>>ですよ、ジャニーズ。あの。ジャニーズが。ネット生配信。しかも、生身の身体ではなく。

 今でこそ、SixTONESYouTube配信から始まって今やあの嵐の動画までもが公式でネットの海に流れる時代なんだけども。ネット記事でも今までは暗黙の了解だったジャニーズタレントの写真の掲載禁止も解禁されましたしね。それでも尚衝撃を受けるのはやはり、『生身の身体ではない』ということだ。だって、禁止されるほどの顔だぞ……?せっかく解禁された禁止されたほどの「顔が良い」人間が、正体を明かしながら2次元(?)のキャラクターに……。何故……。

 

 そしてこの記事のタイトルの本題に入るのです。「何故、今、」「なにわ男子なのか」「バーチャルなのか」。

 

 

今、空前絶後VTuberブームに入っていると思います。少なくとも、私の感覚はそうです。VTuberという単語自体は広く知られてはいないように伺えますが、一部のオタクのまた一部には、VTuberというコンテンツに注目している方が多いと思います。

VTuber』とは『バーチャルYouTuber』の略です。一番最初に大きなヒットを生み出したのは2016年、今や多くの人に知られているであろうキズナアイちゃん。それから輝夜月、電脳少女シロ、ミライアカリ、バーチャルのじゃロリ狐娘(ねこます)などと大きなチャンネルの出現は続いていき、ちょくちょくと新しいVTuberのチャネルは増えていきましたが、その後、本当にほんの一部の界隈にしか注目されることのないままその盛り上がりは鎮火しつつあるようでした。

しかし、先ほども挙げたように、また、VTuberが注目されています。大きなチャンネルのVTuberと繋がりを持っていたVTuberたちが勢力を上げて各キャラごとにも知名度が高くなっているのもあります。そして、よく聴くようになった言葉が「にじさんじ」。他にどんなコンテンツや企業があるかはわかりませんが、にじさんじの存在は大きいと思っています。

そして、SHOWROOMも去年の下旬からバーチャルキャラクターになって配信できるサービスが始まりました。今やバーチャルキャラクターとして配信する方も信じられないくらい多いとかなんとか。

 

 

『ジャニーズ』『ジャニーズ事務所』というもの自体はもう、テレビを見たことがある人は存在くらいは知っているだろうし、タレントのうちほんの数人でも認知している視聴者がほとんどのはず。そこで投下されたのが『なにわ男子』の藤原丈一郎くんと大橋和也くん。彼ら、ジャニーズはジャニーズでも、『ジャニーズJr.』であり、『関西ジャニーズJr.』なんですよ。

『関西ジャニーズJr.』であることをここでは強調していきたいと思います。何故かというと、関西勢、昔から「圧倒的に仕事が少ない」んですよ。多くの人がご存じだとは思うのですが、メディア業界、特にテレビ業界では中心となる場所は東京。田舎の人々が大きなやりがいのある仕事や生活を求めて『上京』することは多いと思うのですが、メディア上で自分を売るには大きなテレビ局や劇場がある東京に出るというのはものすごく大きなことだと思うんですよ。

しかし、彼らは関西住み。しかも未成年も多く保護者から離れてひとりで東京へ行くなんて普通、以ての外ですよね。そして、関西で活動を続け、地方局の仕事しかないままときが経ち……なんてオチがほとんどです。いくら事務所から推されていても、メディア露出の多い東京の子たちが知名度を上げて先にデビューしてしまうことが多い。

そこで挫折してくすぶってしまう人、多いんですよね。折角推されていても、くじけてしまう人は東京のJr.にもたくさんいるとは思うのですが……。でも、関西勢が露出が少ないのはすごく勿体ない。……あの人、デビューしてほしかったな、なんて思い出して切なくなることがあります。私も関西生まれ関西育ちなもので、多分親近感もあるのかな。

とにかく、勿体ない!!!!

 

そこで今、まさに今年のちょうど1年ほど前、関ジュの少数精鋭から更に可能性を秘めた人材を掻き集めたグループが生まれました!その名も、『なにわ男子』!!!!

そんな彼ら、関ジュでは前例のないほどプッシュプッシュ、猛プッシュ。とにかく推されているのです。あの、関ジュ出身からあそこまで大きくなった関ジャニ∞さんもお墨つきです。関ジャニ自身、なにわだけでなく関ジュ全体を大きくしようと奮闘しているのは、『あの頃』を想っているからでしょう。非常にアツいっすね。

そんな中、産み出された1歳のグループ・なにわ男子。その中でも安定しているふたりにSHOWROOMの前田シャッチョの目が留まりました。その名も、言わずと知れた、『丈橋』です。

 

>>>>>>丈橋です<<<<<<

 

すみません、推しコンビなばかりに取り乱してしまいました。

 

丈橋があすかなを演じていることは、『関西ジャニーズJr.』であることを強調したい、という話の前に挙げたと思うのですが、その丈橋がとても素晴らしい。

藤原丈一郎くんこと(国民的幼馴染みこと(本人はどこか不本意ですがそのすれ違いがまさにリアコですよね))丈くんは芸歴15年。小学生の頃からジャニーズ事務所に所属しており、芸歴は物を語るがごとくお話しの幅が広いんですよね。そしてそのお話しの瞬発力が高い。頭が回るタイプなんだと思います。漫才の台本も書けますしね。

そして大橋和也くんこと大橋くん(はっすんとも呼ばれていますが本人的には和也くんと呼ばれたいらしいです)は芸歴が10年(丈くんと比べると短く聞こえますがJr.歴がそれだけあるということはかなり長いです)。ダンスがとても音と合っていて歌もとても上手い。そして底抜けに明るい。のびやかの化身なんですよね。そしてのびやかすぎる故に発言も……苺ちゃんなのか大橋くんなのか、大橋くんなのか苺ちゃんなのかわからないくらいのそれです。

ボケとツッコミ、綺麗にバランスがとれていて、息がとても合っているんです。歌の解釈というか、感情移入の方向性も、丈くんは気持ちを伝える側、大橋くんは気持ちに寄り添う側の歌い方をしているように見えます。だからこそのシンメ、コンビ、バディ、丈橋。そんなふたりに前田シャッチョは目を付けたのです。

ふたりとも芸歴があるからこそ瞬発力、対応力が非常に高いと見越したんだと思います。丈くんは臨機応変が利くので、芝居の伸びしろもあるためにクールキャラの飛鳥ちゃん、大橋くんはまっすぐすぎるほどまっすぐなので、その真っ直ぐさで配信を明るくしてくれるだろうと元気いっぱいの苺ちゃんに抜擢したのでしょう。

 

 

それが功をなして、今はこんな状態。

SHOWROOM代表の前田氏の目に狂いはなかった。キャラデザ、シナリオも大手のHoney Worksさんですしね。あそこは安定です。大きなプロジェクトをいくつも成功・継続させていますし、絵も万人受けする綺麗さ。有名声優ばかり携わっているなーと横目で見ていたのですが、あすかなに携わっていただいており誠に感謝しております。

 

 

総括。

今、バーチャルが再び盛り上がりを見せ、視聴者に「キャラが動いて自分のことを話してる!そして会話ができる!」と楽しませたり「もしかしたら自分もこんなキャラに変わってみんなと楽しい毎日を送れるのでは?」と夢を持たせています。

そして

今、人気を得るための成長や露出に恵まれなかった関西ジャニーズJr.がまた新たな動きを求めがむしゃらに、ファンの恋や友情、仕事などに夢や希望を与えるために孤軍奮闘してアイドルを極めようとしています。

バーチャルが好きな人が、二次元が好きな人が、関西ジャニーズJr.に流れてきます。流れてきています、確実に。

 

これは、革命です。

アイドルは、夢と革命のために生まれてきた。これが、アイドルたる姿です。

このいのちの使い方を 君に愛されたい

大森靖子「IDOL SONG」の一節ですなんですけど。

いや~~~~この言葉はすべてのアイドルに当てはまると思うんすよ。思うんですよ。むしろ、このひとことがアイドルのすべてだと思うのです。切実に。切実な。

 

 おはようございます、こんにちは、そしてこんばんは。まがりです。

今回は、私が愛するすべてのアイドルに見ている『アイドル観』というのを提唱しようと思います。この曲を出させていただいたのは、常日頃から聴いているわけではないんですが、不定期的に思い出しては狂ったように聴いていて、その度に湧き上がる感情があり、この度居ても立っても居られなくなった所存でございます。

 

 

ひとえに、アイドルって『自己承認欲求の塊』なんですよ。そうでもないと成り立たない職業だと思うのです。しかし、それが良い。がむしゃらに、「自分の存在を認めてくれ!」と人前に立って歌って踊る姿が一番すてきで、輝かしいのです。

 

女性アイドルって、『賞味期限』に敏感ですよね。世間一般も、ファンも、当の本人も。他に夢を見つけて卒業する子もいれば、『賞味期限』を読んで卒業してしまう子もいる。きっとそれは自信のなさで、賞味してもらえる価値があるかどうか不安になって、自己承認欲求を満たそうにも『アイドル』という手段じゃ厳しくなっている、という自覚なのだろう。ファンだって、「ステージで輝く姿をずっと見ていたい」という人が多数だろうが、「それでもこの子はもうそろそろだな」なんて思う人も一定数いるのも事実なんですよ。

まあ、後輩に人気が集まってきた、バトンを渡さないといけない、もしくはパフォーマンスに限界を感じる、引き出しがなくなってきた、なんて見解もあるのでしょうが。

 

対して男性アイドルは『賞味期限』なんてものを物ともせずに努力している人が多い。

女性アイドルが努力不足だと言いたいのか、と聞かれると全く違います。むしろ、『美』に対しては圧倒的に女性の方がこだわりが強いし追求する力も何倍もある。男性の『美』の管理方法とはやっぱり違いますよね、『女子力』なんていう言葉があるように。

でも、「物ともせずに」というのが重要なんです。「『賞味期限』『なんてものを』物ともせずに」。

ひとえに、『女性は若い方が愛らしい』という世間の認識。また、『男性は少年時代のあどけなさも良いが、また歳を重ねたときの味もある』という世間の認識。これが男性アイドルに自信を付けさせていると思うんです。きっとある程度『行って』もアイドルを引退する方が少ないのもそれ。

 

結局これ、やっぱり『認識』『周囲の目』『求められているかどうか』をいかに読もうとしているかってことですよ。

 

しかしこれって、どの仕事でも大体言えることですよね、きっと。それに見た目を商品とするなら他にもあるはず。俳優とか女優とか、その他パフォーマーくらいしか私のダメな頭では思いつきませんけど。でもまあ、そんな感じ。

しかしなぜアイドルなのか。やはり、『自分本体』を愛してほしいからなんです。

 

 戻ります。『このいのちの使い方を 君に愛されたい』とはなんなのか。そこなんですよ。

きっとアイドルは『アイドルをしている自分の人生の一部分だけでも愛してほしい、いや愛してくれ』という懇願を胸に抱えて生きているのだと思うのです。

やいのやいの、「嫌われてもいい」「着いてこないならそれまで」なんて『言う』のも、ファンが、着いてきてくれる人がいるから、いると信じてるから『言える』のであって。きっとそれって、「自分の生き方を愛してくれている」っていう自負から来るんですよね。

 

アイドルの商品って結局『生き方』だとか『人生』だとかって思うんですよ。

 

アイドルが頑張っていると「自分も頑張らなきゃな」と思うし、アイドルが葛藤していると「それでも自分は(自分たちは)支えるぞ」と思うし、自分が葛藤しているときに聴くアイドルの歌は応援歌で、踊る姿は自分を鼓舞するもの。

ひとつひとつに全身全霊で取り掛かってる、その姿で応援している側は着いていこうと思うんです。

そうやって応援して、それがアイドルに届くとまた自信に繋がり、より応えようと返すようにパフォーマンスを見せてくれる。それも結局「もっと愛されたい」「愛され続けたい」なんていう欲からだと思いますよ。

 

 

『結局』『結局』と連呼しながら言いたいのは、やっぱり「アイドルって最高だ!!」ことです。

自分を認めてほしい、なんて人間臭くて、その為に働く、なんて言ったら語弊があるかもしれないけど、その為に『アイドル』として生きて『外見』を商品にしてるなんて泥臭くて欲どしいところが愛しくてしかたない。

 

 

皆!!愛をくれるアイドルを$(ドル)で愛して行こうな!!

断念 オタクを辞めるということを辞めたマン

ハマる対象が好きなことを除くと自分がなくなってしまう。」

 

この危機感をきっかけに始動した「オタク卒業プロジェクト」。

金や時間をつぎ込んで得られるものは何だろう。深く考えていた。

「オタク」を辞めて新たに得られるものはあるのか。

ケジメを着けて「やりたいこと」をできるのか。

 

葛藤したうえでの決断だった。が、が……(笑)

 

わかってたのかな、寂しいかな、自分の心が寂しすぎる。

 

好きや趣味に本質的な理由や結果なんて要らない。

結局「やりたいこと」と口では言っていても「やるべきこと」「しないといけないこと」と無意識に無理に別の方向へ進もうとしていただけだった。

 

無謀でした。

 

 

 

 

イエェェェェェェェェェエェェェェェェェエェェェェェエエエエエイ!!!!!!

(ここで突然の場面転換)(冒頭が重すぎる)(ここからが本番)

 

 

どーーーもーーーー!!(漫才の入り口ばりの登場)

おはようございます、こんにちは、そしてこんばんは!!

 

我こそはサンシャインまがりです!!!

 

もうね!オタク辞められないですね!

辞めることを辞めてしまいましたね~~~~!!

 

最後の更新から2年も経ってしまいましたが、無事、オタク卒業できませんでした~~!!

無事、ジャニオタも11年目を迎えてしまいました!!

 

オタクをしてて得られるものって本当に、大したことないんですよ、大抵の場合。

もちろん、一部は除きますがね?除きます。それは本当に。大切なことなんで。

 

オタクをしてて得られるもの、すなわちそれは

「インスタントな幸せ」

なんですよ。

 

でもそれがどれだけ毎日を生きる活力になるか。

オタクなら誰しもが理解せざるを得ないでしょうよ!!

 

その幸せに依存してるんですよ、私は。

「インスタントな幸せ依存症」とでも言うのですかね……。

 

もーーーうこればっかりは仕方ない!しゃーないですよ、しゃーない!!

 

 

と、言うわけでですね。無事、現在もeighterと二次元イケメンのオタクをやっています。

 

 

2年も更新しない間に色んなことが起きました。

 

個人的には、ちょっとハメを外して社会復帰がおじゃんになったり、やっと事故のときに手術ではめた器具が再手術で取れたり、圧倒的片想いしていた人に攻撃するだけして(相手には全く響いていない)仲間内の関係を崩したり……。

そしてやっと社会復帰に成功してパートから契約社員or正社員へ転職を考えているところです。

 

 

それはさて置いて。

 

まず、一番大きなことは。

彼が脱退を告白、そしてめまぐるしい日々を経ての脱退。

それがとても大きいです。

 

とても。大きいです。

 

悲しくて悲しくて。

 

あれからいくらか経って、整理できないままでもやっぱり、

「元気にしてるだろうか。

ご飯を食べているだろうか。

満足のいく睡眠をとれているだろうか。

友達や家族と笑い合っているのだろうか。

何より、音楽とともに生きて幸せに生きているだろうか」

そればかり気になる瞬間が多々ありました。

 

今はメディアにちょこっと顔を出したり、会員限定なりともブログを立ち上げたりしていて、なんなら秋に音楽活動再始動の報せを聞かせてくれて。

 

生きていてくれて、音楽と生きていてくれて、ありがとう。

 

そういう気持ちでいっぱいです。

 

でも、やっぱり悲しくて。悲しくて。

本当に、寂しい。さびしい。

 

ほとんどのファンがもう、整理をつけているみたいなんです。

離れるなり、並行して応援するなり、一途に応援するなり、それぞれの整理をしているのをあちこちで見かけます。(あちこちっつってもほぼtwitterなんですけどね)

 

私はやっぱり無理なんですよ。

きっと、いつまでもどこまでもこの寂しさを抱えていくんだと思います。

 

でも、そのことがきっかけなのもあるかもしれません。

こじつけたいのかもしれません。

 

渋谷すばるが離れた今、おれらが支えていかなきゃな!!

応援せずしてどうする!!」

 

その気持ちがでかくて。まーーーーあ、そりゃあもうでかくて。

 

それで、なんだかんだeighterやってます。

円盤は揃えていないのですが、近々のライブに当選したのである程度揃えようかと思っています。

 

オタクを辞められないかった理由として一番大きかったのはそれ。

ほんとうに、それ。

 

 

あとはね、まあまあ、ちょこちょこ。

A3!で向坂椋の主演作品に立ち会って無事イベSSR椋ちゃん4枚ゲットしたりね。

ヒプノシスマイクとやらにハマって銀色に輝く長髪の女神に出逢ったりしてね。

あとこれすごいのが、中堅関ジュでグループ結成されたかと思うとバーチャルジャニーズというコンテンツが誕生したりね。

 

毎日オタクとして目まぐるしすぎる!!!!

 

というわけで、なんだかんだ楽しんでいます。

全てが私の生活の一部です。

 

あすかなに至ってはもう、1日の締めにないと今日を生きる活力・明日を生きる活力がなくなるもんなあ。

それが派生されてなにわやAぇ!にハマりつつあるし……。

 

いやー、オタクですよ。オタクは死んでもオタク!!(死んではいません)

むしろ2年前から悪化しているというね……(笑)

 

 

 

まあ、そんなこんなで、まがりは今日も元気にオタクして元気に生きています。

 

ここでは卒業式を中断し、いろいろお話しする場にすることとします。

 

もともとオタク関連とは全く関係のないことも投稿しようと思っていたのだけどね。

まあ、おいおい。それはおいおい。

 

というわけで、締め!!!!

 

ストゼロレモンと魚介類、美味しすぎて大変!!

 

 

以上。またね。